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[2021/09/10] 9月20日(新宿FACE)興行出場“ジャパンキックの星”馬渡亮太インタビュー

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9月20日(新宿FACE)興行出場“ジャパンキックの星”馬渡亮太インタビュー

取材・文:JAPAN KICKBOXING INNOVATION広報部

メインイベント スーパーファイト団体対抗戦 57kg契約 3分5回戦
宮元 啓介(橋本道場/INNOVATIONフェザー級王者、WPMF世界スーパーバンタム級王者など6冠王)
馬渡 亮太(治政館/ジャパンキックボクシング協会/WMOインターナショナル・スーパーバンタム級王者、元ジャパンキック・バンタム級王者、元チェンマイスタジアム・バンタム級王者)

——今回、9月20日興行のメインイベントは、JAPAN KICKBOXING INNOVATION(以降、INNOVATION)のエース格、“THE CYCLONE”宮元啓介選手を相手にジャパンキックボクシング協会の看板ファイター、馬渡亮太選手が乗り込んで正面衝突する団体対抗戦となりました。

ワクワクします!

——団体の看板を背負ったプレッシャーなどありつつ?

自分がジャパンキックのエースだと言っていただくこともあり、それだけに余計頑張ろうと奮起の力にはなりますが、それ以上に子供の頃から強いチャンピオンとして試合を見ていたあの宮元選手と戦えることがワクワクの源です。

——28歳にしてプロ生活10年以上、56戦ものキャリアを持つ6冠王、宮元選手は、かなり早い段階で日本キックボクシング界のトップグループに昇り、フルコンタクト空手のバックボーンを活かした派手な回転系の技も華やかなスターファイターですが、それを子供時代からご覧になられていた?

中学生くらいから「凄い選手だな」と見させていただいていました。

——そんなビッグマッチではありますが、今度の試合約1ヵ月前(8月22日)、これもNJKF(ニュージャパンキックボクシング連盟)の代表格、一航選手との団体対抗戦(※1)で大接戦のマジョリティデシジョン(判定0-2)で負けてしまい、そこから短期間でのまた大一番、そうとうハードな連戦です。

宮元戦のお話は一航戦の前にいただきましたが、即断で「やらせてください!」とお願いしました。勝敗に関わらず試合で怪我をしてしまって欠場したら大変な迷惑をかけてしまうことになるので、その点、不安はありましたが、それよりも試合への熱が上回って、結果、身体に問題はないので、全力で宮元選手に挑みます。

——そんな若々しい熱意に満ちた馬渡選手のここまでの来歴を聞かせてください。キックボクシングとの出会いは?

小1になって、自宅から1分の近所にあった治政館越谷道場(現在閉館)です。

——それ以前に空手やボクシングなど類似競技の経験は?

それが初めての習い事でした。

——きっかけは?

親父がPRIDEとか好きで一緒になってテレビを見ていたので、「近くにジムがあるからやってみようか」といった軽い気持ちです。イジメられて強くなりたいとか、暴れん坊で手が付けられなかったからみたいなこともない友達と遊ぶのが好きな普通の子でしたので。

——そうやって始めたキックボクシング、当時、いかがでしたか?

ジュニアクラスが週二回あってそこへの参加からでしたが、キックもパンチも楽しくてずっとワクワクしていました。

——アマ戦績が56戦50勝4敗2分と試合数も勝率もかなりのもので、国際ジュニアタイトル(※2)の4階級制覇をはじめ輝かしい履歴が輝いておりますが、試合はいつから出られたのでしょう?

小2の時、国際ジュニアの第1回大会が開催されて、そこからです。

——参戦当初から良い戦績でしたか?

いえ、勝ったり負けたりで。それがもっと本格的な練習を求めて小4で三郷市の治政館本部道場に移籍して、今も教えていただいているセンデット・サシプラパー先生などに熱心にコーチされるようになってからほとんど負けなくなりました。

——治政館というと日本拳法出身の名王者、長江国政館長が創設されて、“超合筋”武田幸三をはじめ無数のチャンピオンを輩出し続けている名門ですが、ムエタイよりもキックボクシングのイメージがあります。そんな中、不思議と馬渡選手はムエタイ色が強いように見受けられるのは、小学生時代からタイ人トレーナーに師事されていることもあるのでしょうか?

そうですね。小6で初渡タイして以来、タイにはよく練習と試合をしに行ったりもしていました。

——小学生でタイ修行とはかなりの本格派ですが、それは練習ツアーに?

首都のバンコクではなく、センデット先生の田舎、東北部のローイエット県で試合をしました。

——小6で本場ムエタイデビュー?

ヒジ打ちこそありませんでしたが、ワイクルーも踊りましたよ。

——結果は?

1ラウンド、ヒザ蹴りでKO勝ちです。一緒に来てくれた親父や友達が喜んでくれて嬉しかったです。

——現在、ムエタイ系のタイトルも2冠獲得(WMO、チェンマイスタジアム)しましたし、治政館伝統のムエタイキラーの血が流れている具合でしょうか?

けど、昨年3月にタイの3チャンネル(テレビ局主催興行)でやった相手には、ボコボコにされて負けました。僕はスーパーバンタム級やフェザー級の中では高身長(178cm)な方ですし、自分よりリーチの長い相手と試合をしたことがなかったのですが、その時は体格でも上回れて、蹴りはカット(脛によるガード)しても痛いし、キックなら誰にも負けない自信があったのにそこも上をいかれて、しまいにはヒジでダウンを奪われてしまって……。

——余程有名な強豪選手だったのでは?

それが無名で調べてもわからないんです。センデット先生によるとコロナの影響か、もう試合をしていないようです。

——ムエタイ底なし沼を物語るエピソードです。それでありながらも指標はやはりムエタイ一本?

はい、まずはラジャダムナンかルンピニーのスタジアム認定王者になります。その上で大きな舞台や派手なイベントにだってどんどん出ていきたいですし、有名な選手と戦いたい。

——するとRISEやRIZINの那須川天心選手やK-1の武尊選手が思い浮かびます。

ですが、ヒジ打ちなしはやりません。それだけは絶対条件です。ムエタイやヒジありの正統派キックボクシングを極めた後のチャレンジであればいいかもしれませんが、まず決めた目標を目指す途中で横道にそれて遠回りすることはしません。RIZINで吉成名高選手がヒジありルールで出場していましたが、ああいう形なら是非です。

——そこまではっきりと言い切られると気持ちが良いほどです。馬渡選手に数年先駆けてアマで大活躍していた那須川選手は、中学卒業と同時にすぐにプロ入りしましたが、やはり同様に高校入学即プロデビューでしたか?

いえ、自分はその頃、ヒョロヒョロで身体が弱く、政人さん(治政館会長代行、長江政人)の方針で1年様子を見てからのプロデビューでした。

——そこから前述の紆余曲折がありながらも“打倒ムエタイ”を含むキックボクシングの王道を邁進されているイメージです。

キックを始めたばかりの子供の頃、アマの試合を重ねた少年時代、高校生でプロのリングに上がっていた時、ずっと変わらないドキドキが今も止まりません。プロ選手として最近取り組み始めたフィジカルトレーニングの強化も効果を実感しますし、つい先日の一航戦でも色々気づくところがあって、1か月足らずで大きくレベルアップできた自信もあります。

——宮元戦は、まさにメインに相応しい試合となりそうですね。

ムエタイ×空手といったバックボーンも見えやすいし、噛み合わせも良いと思うので相当面白い試合になるでしょう。ズバリ秘策があります。今、心も身体もワクワクしています。お楽しみに!

※1 一航選手との団体対抗戦 2021年8月22日、ジャパンキックボクシング協会主催の後楽園ホール興行でWBCムエタイ日本バンタム級王座など2冠王、新興ムエタイジム所属の一航と馬渡の一戦は白熱の接戦となり、ポイントリードと思われた馬渡が3ラウンドに右フックでダウンを奪われ判定拮抗の好勝負となった。

※2 国際ジュニアタイトル NPO法人国際キックボクシング文化振興協会が運営する国際ジュニアキックボクシング大会内の公式戦で認定されるアマチュアチャンピオンシップ。2008年6月29日に「第1回国際ジュニアキックボクシングチャンピオン決定戦」が開催され、志朗、山浦俊一、竹内将生、伊藤紗弥といった現在も活躍する王者たちが初代チャンピオンとなっている。馬渡は、この王座を34kg級、37kg級、40kg級、50kg級の4階級を制覇した。

リングネーム:馬渡 亮太
フリガナ:マワタリ リョウタ
所属:治政館/ジャパンキックボクシング協会
生年月日:2000年1月19日(21歳)
出身地:埼玉県越谷市
身長:178cm
戦型:オーソドックス
戦績:29戦20勝(11KO)7敗2分
ステータス:WMOインターナショナルスーパーバンタム級王者、元ジャパンキックボクシング協会バンタム級王者、元泰国チェンマイスタジアム認定バンタム級王者

9月20日興行の詳細はコチラをご参照ください。